ふぐの歴史とザクの由来
初代店主 故 藤田浅次郎
秋から春にかけてふぐの味覚は何と言っても魚類の王者である。
私が若い頃、大正9年、10年門司市の一流料亭菊の家で修行したことがある。
年中ふぐの専門店のようにたくさん扱って居った当主は阿金籐七郎というこの人は、
調理師として関西の名人である。サヌキの佐伯(元新居浜調理師会長)、
伊予の越智亀(元今治調理師会長)、福岡の阿金、茶花道、書道にも通じ
料理に精進して関西の三羽烏として他の調理師のせん望のまとであったということです。
私はここでふぐ料理をみっちり教わりました。
この阿金親方からふぐの歴史についてもお話を聞かせて頂きました。
徳川幕府時代から明治、大正にかけてふぐ毒で死すひとはかなりな数字になる。
徳川時代にはこのふぐの食禁止令がでている。
明治になってもこの禁止令は適用されて居った。
今日から言えば八十余年もの昔になるが、明治27年、8月の日清戦争が
日本大勝利のもとに終結して、当時の総理大臣伊藤博文公爵と敵方の全権大使、
李鴻詳と下関の春帆楼において講話談判が行われた。
かなりな日数も要したことと思う。その間に関門にも数日の悪天候が続き、
活魚が取れなかったそうである。春帆楼のおかみも総理に差し上げる魚に
困って板前に申しつけてふぐ料理を出したそうである。
翌朝総理がおかみ一寸上がって来なさいというので、さあ大変だ、女将は
青くなって、おそるおそる上がって行くと、いきなり、おかみ昨夜の魚は
何という魚かと問われたので、女将はますます恐れ入り、誠に申し訳御座いません。
ご承知のように毎日のしけで魚も全然とれないので禁制の魚を差し上げて
誠に申し訳ありませんと、畳に頭をすりつけてお断りしました。
総理は、いや女将そうではない、前夜の魚は非常においしかったので、何という
魚か尋ねているのだと申されましたので、女将もやっと安心して、
はいふぐでございました。ふうん、ふぐはあんなおいしい魚か、
なぜあたらなかったのかと、ふぐについていろいろとただされました。
女将もお料理のやりかたで十分な注意をすれば絶対にあたりません。
この関門では唯一の珍味としてお客様から喜ばれて居りますと、
色々ご説明申し上げると、なるほどと感心されて以来関門、山口県と
福岡県だけにはふぐ料理が解禁された。
昭和28年全国条例でふぐ調理師法が適用され、免許者だけがふぐの調理を許されました。
現在「ふぐ取扱者免許証」その間約70年各地でもふぐ料理はしているが、ふぐの看板は上げられず、鉄砲料理とされています。その意味はなかなか当たらないとということと、
たまには当たるという両方の意味を兼ねた甚だ無責任な看板である。
この鉄砲も大正の末期から略されて「てっちり」の看板が各地で見受けられる様になりました。
私は昭和7年5月新居浜に来ました。
昭和8年の秋、元の養気楼で初めてふぐ料理をはじめました。その頃名古屋ふぐが百匁八銭、
大ふぐが百匁六銭位で一〆目もあると40銭や45銭位で買えました。
その頃の新居浜で大ふぐの料理法など知ったものはありませんでした。
大半は農家の肥やしになっておった。
昭和14年、寿司と一品料理でささやかな腰掛料理店を開店しました。
夏は天ぷら、秋冬はふぐ料理で客に喜んで頂きました。ふぐの時期になると毎日20キロ、
30キロのふぐを料理しました。
夫婦で毎日コットンコットンと手押しポンプの水を押して、朝早くから夕方まで、
水洗いにかかる毎日でした。
客の来かける頃までに突き出しをつくるのにやっとでした。
チリは手数がかからないが、さしみを造るのに大変でした。
その頃の常連の客に、現在の港町に秋月定雄(北支で戦死、元化学相撲取り荒砂)という
元気な男で暴飲暴食の方でしたが、私と非常に心安く兄弟のように交際しておったが、
一日客がたて込んで大変忙しく、好きなふぐさしが待ちきれず、浅兄さん、どんなにでも
かまわんから、ごつうにかみごたえのあるように切ってつかあやと言うので、
日頃私が好きで、さしみの切り落としや、皮などを入れて食べているように、
身、皮、肝など切り込んでたっぷり酢をかけて出すと、うまいうまいと大変喜んで、
次からこれに決めたと言ってお代わりもとりました。
その後、いつも、兄さんあれしてつかやと言って、そうした簡単料理を3,4人前
食べて喜んでおりました。ある日ひょっこりやってきて今日は休みだから兄さんと、
ゆっくり一杯やらんかと言うので料理はいつもので飲んでいると、
浅兄さんいつもあれしてくれいうのでは、どうも格好がつかんから何とか名前をつけて
と言って二人でいろいろ考えたがよき名前も浮かばないので、結局ザクザクと
きざんで混ぜ合わせるのだからザクザクとでもつけるかと言うと、それが良かろうと
言うことで、以来ザクザクとして波満蝶独特の料理としてその後、ふぐ愛好者から喜ばれました。長い間にザクザクも略されてザクということになってしまった。
ザクの由来はこうしたごく簡単なことから始まりました。由来を知らない客は東京、
大阪あたりへ行ってザクの注文をして業者をこまらすそうです。
新居浜だけの名前ですから余所の板前には分かりません。
昔の私方の常連は余所へいっても、こうこうするんだと板前に教えたそうです。
そのはずです、腰掛けで毎日目の前でする料理法を見ているから、このことに限っては
余所の板前より詳しい方がたくさんおったことでしょう。
昭和46年7月
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